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私の半生

6. ジム経営を考え始める。私のウェイトトレーニングの経験を試してみたい

robinbreck / Pixabay

昭和43年。

幼なじみに誘われて、
会社の運営に、
かかわることになりました。


塗料を扱う商事会社。

専務、というか参謀と言うような形で。

トレーニングする時間がない!


昼は営業。
車であちこち飛びまわる。
夜は接待。お酒お酒。
そんな毎日。

とても忙しかった。


気がつくと、
YMCAにもなかなか行けなくなっていて、

思うように、
トレーニングもできませんでした。



ある時、
車から降りようとしたら、
ヨロヨロっと体が傾きそうになる。

足腰がグラグラしてるんです。


スクワットで240kg上げていたのに!


愕然としましたね。


ストレスと、お酒の付き合い。
そして練習不足。

痛感しました。


そしてすぐに、
トレーニングを再開しました。

トレーニングを続けることの大切さ



体というのは、

鍛えたり維持するのはすごく根気がいりますが、

トレーニングを止めてしまうとすぐに、
元に戻っていってしまう。


本当にあっと言う間。


だから、とにかく続けること。

少しでもいいから。

今、自分ができる範囲でいいから。



毎回100%、120%でやろうとすると、
しんどくなってしまいます。


調子がいい日も悪い日もある。

その日の調子や気分に合わせて、
調整しながらやればいいんです。


完璧でなくていい。

とにかく続けること。

その大切さを、
その時に胸に刻みましたね。

ジム経営を考え始める

YMCAでトレーニングをしながら、

そこに回りの人たちに教える。


そいうことを、
ずっと続けてきたんですけど、

だんだんと、
自分でジムを経営したらどうなるんだろう、

と頭に浮かぶことが多くなりました。



いつかはジムを経営したい、

というような目標を、
ものすごく持っていたわけではありませんでした。


でも、自然な流れなんでしょうかね。

人生ってどこでどうなるかわからないですね。



そのころは、
仕事場と住居を恵比寿に移していました。


数年間、
会社運営に関わっているうちに、

経営というものにもさらに興味が湧いていて、

このオレでも通用するのかなっていう思いが、

大きくなっていました。


これまでやってきたことを試してみたいな、

っていう思いもありましたけど、

それほど気負ってはいなかったですね。


一か八か、
ダメでもともとだと思って気楽にやりました。

力を抜くと、力が出る

トレーニングも一緒なんですけど、

あまりに力み過ぎたり、
力が入り過ぎていると、
よくないですね。


やり過ぎてしまったり、
ケガをしてしまう。


なにより疲れてしまって、
続かない。


少し肩の力が抜けて、
リラックスしているくらいが、

何事もちょうどいいと感じます。


こうした経緯で、
自然な流れに乗るように、
ジム経営に向けて、
少しずつ歩き始めていきました。

5. トレーニングスタイルの確立。安全で効率的な方法をいつも探していた

手帳と万年筆

誰もいない夜の幼稚園。
その中から聞こえてくる金属のぶつかる音。

トレーニングは場所を選ばない

私がトレーニングをしていたYMCAは、
会員制のスポーツクラブでした。


スポーツクラブとは言っても、

トレーニングする場所は、
幼稚園の講堂。


幼稚園は日中しか使わないですから、
空いている夜の時間を借りていたんです。

夜7時くらいから。



情熱が人を動かす

我々のボディビルクラブだけではなくて、

他にも沢山のクラブがありました。


社交ダンスやフォークダンス、
卓球などなど。

どのクラブもけっこうレベルが高かったですね。



活動は各クラブ週に2回、
一日おきに交代で場所を使っていました。


そういえば、
他のクラブはどこも週2回だったんですけど、

我々のボディビルクラブだけは、
なぜか週3回使っていた。


私が入るもっと以前のことだったらしいんですけど、

ある先輩が、
どうしても土曜日に貸してほしい、
と懇願したらしいんです。

それでは特別に、ということで、
ボディビルだけ週3回になったらしいんです。


よほど、情熱に溢れていたんでしょうね。

トレーニングスタイルの確立

そんな理由から、ずっと、
週3回のスケジュールでトレーニングを続けていたので、

だんだんと一日おきのペースが、
体に合うようになってきました。


毎日トレーニングをすると、
どうしてもオーバーワークになりやすい。

好きなことはついついやり過ぎちゃいますからね。


一日おきというリズムが、
私にはすごくちょうどよかったんです。



この頃に、
コンディション作りのペースや方法を覚えていきました。

自分のトレーニングスタイルが、
だんだんと確立してきたんです。


そのおかげで、
未だにオーバーワークになりません。

工夫は不便から生まれる

練習場所には、

備え付けのトレーニングマシンや、
器具などはありませんでした。


常設の場所ではなく、
幼稚園の講堂を夜間借りていただけなので、
トレーニング環境としては、
決して十分な場所ではありませんでした。



ベンチプレスの台が2台とスクワット台くらい。

それにバーベルやプレートがいくつか。

毎回、倉庫から出して、その度にセットして、
ようやくトレーニング開始です。



ベンチプレスの台などは、
バーベルを乗せておくラックは付いていないので、

ペアになって、補助をする必要がありました。


それでも、ひとりでやる時もあります。
でも、重い重量をあげたい!
でも、一回でも多くやりたい!
と思ってしまうわけです(笑)。

すると、
自然と頭をひねって工夫をする。

そういう状況から、
いろいろなアイデアが、
どんどん出てくるんですよね。


ひとりで行うベンチプレスのやり方

例えば、
ベンチプレスをひとりでするとき。

終わった後はバーベルを一旦胸に下ろして、
転がして骨盤の辺りまで持ってくる。

そこから上半身を起こす。

これなら補助がなくても安全に出られます。


そういった方法を、
いろいろと工夫して、
失敗して痛い思いもしながら、
ひとつひとつ見つけ出していきました。


だから、ジムを始めてからも、

「私がいない時にもしもつぶれちゃったら、
こうやって安全に出てくださいね」

という安全に配慮した、
経験に基づいた指導ができたんです。



今のマシンや器具は高機能で、

いい時代になったなあと思う反面、

使う側の独創性や発見は、
少なくなってしまったんじゃないか、
と感じます。


昔は今よりも便利じゃなかったから、

その分、身体だけでなく、
頭もトレーニングできましたね。

時にはトレーニング環境を変えてみる

私が所属してたのは、
江東YMCAというところ。


それ以外に、
神田のYMCAにもたまに顔を出して、
トレーニングをさせてもらっていました。


本当は、
所属以外の施設は勝手には使えないんですが、

神田で2番目にエラい人が私をかわいがってくれていて、

ナイショで入れてくれてたんです。

もう時効ですよね?(笑)



神田に行くと、
私の体は群を抜いて大きかったようで、
目立ってしまうんです。

「その背中はどうやって鍛えたんですか?」
とか、
いっぱい質問されました。



一番熱心に聞いてこられたのは、
ロッククライミングをされていた方。

大会で優勝したこともあったそうで、

小柄だけどすごい筋肉でした。

贅肉ひとつなかった。


そしていかにも頭が良さそうでした。

ロッククライミングは体力だけじゃなくて、

戦略とか直感とか、

頭脳の明晰さも求められるんでしょうね。



その人は学校の先生だったらしいです。

他にもクライミングをされている方に何人も出会いましたが、

不思議と学校の先生が多かった。

夏休みとか長期の休みがとりやすいからなんでしょうか。


筋肉を動かすだけが、トレーニングではない

そうやって、

普段と違う場所に行ってトレーニングをすると、

いつもとは違ったバックボーンを持った人たちと出会えて、

本当に刺激になりました。

いろいろな人のいろいろな考え方や知識が、
自分のトレーニングにも反映されていき、
進化を続けていく。

人との交流や、
未知の環境を覗いてみることで、

トレーニングや指導の幅が、
広がっていくのを感じていました。

4. トレーニング指導を開始。苦肉の策から生まれた効果的な指導方法

重そうなバーベル

YMCAでずっとトレーニングを続けていると、

自然と他の会員さんたちに、
教える機会が増えていきました。

そのトレーニングどこで覚えたの?

なぜかというと私は、
まわりの人とは違うトレーニング方法を、
よくやっていたんです。



前にもお話ししましたが、

銀座にある近藤書店という老舗の洋書古本店に、

海外のボディビル雑誌がたくさん置いてありました。
参照>2. 東京YMCAにて本格的にウェイトトレーニングを開始

そこに足しげく通って、
海外の最新のボディビルやトレーニングの情報を、
仕入れていたんです。

どうしても欲しいものは買いましたが、

値段が高いのでだいたいは立ち読み(笑)。


店の中で一生懸命暗記をして、
店の外に出て一気にメモをする。

それを繰り返してました。

そうやって覚えたトレーニングを、
YMCAでやってると、

「それどこで覚えたの?」
とか、
「ずるいよ!」
って言って、いろんな人が聞いてくるんです。


ネットもない時代ですからね。
海外の情報なんて今ほど簡単には手に入らない。


私が、誰もみたことないようなトレーニングをしてるものですから、

みんな、なんだなんだ?って言って、
珍しがっていました。


私としては、
ただただトレーニングをするのが好きだったので、

もっといいやり方はないのかな?
と探していた結果、
自然と海外のトレーニング雑誌に、
行き着いただけだったんですけどね。


助け合い、分かち合い

YMCAには助け合いの精神っていう、
文化、考え方がありました。

なので会員同士、
教わったり教えたり、ということが、
日常的に行われていました。


最初のうちは、
「いやいや、私が教えるなんてまだまだ」
とか言って断っていたんですけど、

だんだんそうも言っていられなくなってきて。


正直言うと、、、
謙遜というよりは、
自分のトレーニング時間が少なくなるから、
いやだなあ、、っていうのが理由だったんですけどね。。。(笑)

トレーニング時間の確保が生んだ思わぬ副産物

最初は、半分しょうがないなあ、
という気持ちで教え始めたんですけど、
今振り返ると、
結果的にそれがすごく勉強になったんです。



自分のトレーニング時間が削られるのがイヤなので、
なるべく早く短く教えようとするわけです。

だけど、責任感もあるし、
きちんとしたことを教えてあげたい。
いい加減なことは教えたくないですよね。


するとどうなるかと言うと、
結果的にポイントだけをズバッと教えるようになったんです。

意識してたわけじゃなくて、自然にね。


教えられる方も、
余分なことを考えずに、
ポイントだけに集中できるので、

分かりやすくて効果もあったみたいで。


斉藤さんの教え方は他の人とは違う!
って、
よく言われるようになったんです。

教えることが一番の勉強

もし私が、
トレーニングが好きじゃなかったら、

やった!サボれるぞっていって、
ダラダラと教えちゃってたかもしれないですね。


的確にパパッと教えて、
早く自分のトレーニングがしたいっていうわがままが、

いい方に転んだんでしょうね。


自分の頭の中だけに知識を置いておくのは、
もったいないことですよ。

人に教えるには、
自分の知識や考えを一度整理する必要があるので、
さらに理解が深まります。


相手の反応も思わぬヒントになって、
そこからまた沢山のことが学べますからね。

トレーニング指導の一番の報酬は感謝

だんだんと、
トレーニングを教えることが日課になっていったんで、

会員さんからはすごく感謝されました。


ある時、向こうの方で、
「ちょっとちょっと」って手招きする人がいて。
頻繁に教えてあげていた会員さんでした。

何だろうと思って近づいて行くと、

なぜかマグロの切り身を持っていて、どうぞって。
笑
その人、魚屋のせがれだったんです。

あれは買ったら高いですよ(笑)。


一人暮らしだから家じゃ料理しないよ、って言ったら、

じゃあ、行きつけの寿司屋に行こうっていうことになって、

これでなんか作ってくれってお願いして、

二人で美味しく食べました。



クリスタルガラスの工場に勤めていた人もいました。

また「ちょっとちょっと」って手招きされるんで(笑)、

行ってみたら、

手にはカクテルグラスが半ダース。

指導は無償でやっていました。
報酬をもらうつもりなんて全くなかったんですけど、

そういう感謝の気持ちはすごくうれしかったですね。


人がお互いに助け合うとか、
感謝をするということを、

YMCAでたくさん体験させてもらいましたね。
私の財産ですね。

3. ボディビルコンテスト出場。優勝できた2つの要因

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東京YMCAでウェイトトレーニングを始めてから、
4年目の1966年、

ボディビルのコンテストに出場しました。
(第1回全日本フィジックコンテスト:ウェイトリフティング協会主催)

24歳の時のことです。



出場していたのは20人前後だっと思います。

当時はまだ、
ボディビルの世界と言うか業界というのは、
まだきちんとした組織になっていなくて、

ウェイトリフティング(重量挙げ)の方が主流だったんです。


それまでは、
ウェイトリフティングの大会が終わった後に、
余興的に、
筋肉の大きさを競うコンテストのようなものが行われていて、
それがこの年に、正式な大会として開催されたと記憶しています。

「お宅が優勝すると思うよ」

階級は、
ショートマン、トールマンといって、
身長で分けられていました。


私が出場したのはトールマンクラス。
身長168cm以上。


自分ではまったく自覚はなかったんですけど、
それほど接戦というわけでもなかったようです。


会場に来ていた他のジムの経営者の方が、

開始前に私の仕上がりを見て、
「お宅が1位になると思うよ」

そう言ってくれたのを覚えています。


ああ、じゃあ、そう言ってもらえるんなら、
私が1位なのかなあ、
くらいに思っていました。笑

そして結果として、
ミスター全日本、ミスター社会人の両部門で、
優勝することができました。

やるからには勝つ。優勝できた要因その1:異分野から学ぶ

コンテストに出場するにあたっては、
ポージングをかなり練習しました。
ポーズを練習したから勝てたとさえ思います。

ボディビルというのは数値で競うわけではなく、
どう見えるか、見せるか、もっというと、
どう魅せるか、
で争われる競技ですから。

人の目に自分の体がどう映るかを一生懸命考えたのが、
優勝につながったように思います。

現在のボディビルの大会では、
規定ポーズとフリーポーズの2種類があります。
ですがその頃はフリーポーズだけ。
当時の師匠にアドバイスをもらいながら、
2、3ヶ月かけて入念にポージングの練習をしましたね。

そして具体的に何をしたかというと、
日本舞踊の動作や間を研究したんです。
体操選手の動きや身体の使い方も。
つまり、ボディビル以外の分野の動きを研究したんです。

ただポーズを取るだけじゃなくて、間をどう取るか。
指先一本一本の動かし方。
どうしたら見ている人を惹きつけられるか、楽しませられるか。
そういう「見せる」「魅せる」という部分をずっと考えましたね。

ひとつの世界だけしか見ていないと、
視野がすごく狭くなってしまいます。
一歩引いて、一見まったく関係のない異分野にも目を向けてみる。
そうすると、これまで気付かなかったことが見えてくるんですよね。

やるからには勝つ。優勝できた要因その2:応援される

コンテストで優勝できた理由として、

場の空気が私を後押ししてくれた、

というのも大きかったと思います。



大会の司会、アナウンスをする人が、
前述の私の師匠だったんです。

自分の土俵で闘えるというような安心感がありました。

回りの人たちがお膳立てをしてくれたようにも感じます。



私の師匠というのは、
アナウンスの勉強もされていて、

1964年の東京オリンピックでも、
重量挙げのアナウンスをしていたんです。


私のポージングの時には、
ひときわ抑揚を付けて、

「この、流れるようなポーズをご覧ください!」

といった感じで盛り上げてくれて。笑

回りの人たちが応援してくださっていることを、
ひしひしと感じました。



そういった一つ一つが本当に楽しくて、

大会に出るとか優勝するっていうのは、
二の次で。

そういうところもまた、

周りの人が応援をしてくれる要因だったのかもしれません。

トレーニングをすることがただただ楽しい

ボディビルのコンテストで優勝した後も、
私自身、心情が大きく変わる、
ということはありませんでした。



コンテストを目標にしてトレーニングを始めたわけでも、
勝つために続けていたわけでもなかったですし。

純粋にトレーニングをするのが、好きだったんですよね。
ただただ、楽しくやりたかった。


だから、次の年もコンテストは開かれたけれど、
結局出ませんでした。

ボディビルという競技は、
20代半ばごろがピークだと言われていたし、

一度出たから、もういいかなって。


仮に、当時、
今のような機能的なマシンとか練習環境があって、

自分自身も欲を出してトレーニングをしていたら。。。

もっとすごいことになってたかもしれないなあ、

なんて思うことは、たまにありますけどね。笑

2. 東京YMCAにて本格的にウェイトトレーニングを開始

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秋田の五城目から東京へ。
まずは学費を稼ぐために仕事を始めました。

手作りバーベルでトレーニング

会社の敷地内には、
あちこちに鉄のスクラップや部材などが、
ゴロゴロ転がっていました。

身体を鍛えたり作り上げていくことへの興味は、
東京へ来てもなくならず、
むしろ大きくなるばかり。

転がっている鉄くずを集めて、
バーベルやダンベルを手作りして、
昼休みに敷地の隅っこで、
黙々とトレーニングをしていました。

やり方は本や雑誌を見ながら独学。
新しいやり方を覚えては、
自分の体で試してみる。
そんな毎日でした。


YMCAとの出会い

会社の同僚に、
高校時代に、ウェイトリフティングで団体優勝した、
という猛者がいて、

そのうち一緒に練習するようになりました。


その彼とふたりで街を歩いていると、
貼ってあったビラにふと目が止まったんです。

それが「YMCA」との最初の出会いでした。

「東京YMCA -バーベルクラブの集い-」という、
有志が集まってトレーニングをするという会。

その会に入会をして、
本格的にウェイトトレーニングの道を進んで行くことになります。

このYMCAとの出会いは、
私にとって本当に大きかった。


練習場所は、
子どもたちが帰った後の幼稚園。

器具も、バーベルが数本あるだけ。
コーチとか専門家もいません。


だから、自分で工夫をするしかなかった。
すべて手探り。
でも、それがすごく楽しかった。

海外のトレーニング雑誌で独学

仕事が休みの日にはよく洋書店に行きました。
目当ては海外のトレーニング雑誌。

海の向こうのトレーニングに関する最新の情報や、
今まで見たこともないようなトレーニングのやり方が、
沢山載っているんです。

それはもうワクワクしました。


その当時、専門雑誌はとても高価で手が出ない。
だから、立ち読みして頭に叩き込んで、
店の外に出たら、すぐにノートに殴り書き。
そんなことを、ずっと繰り返していましたね。笑


喫茶店にもよく入り浸って、
練習方法を黙々と考えたりもしていました。

工夫次第でどこでもトレーニングができる

公園。
ここも、私にとっては大切なトレーニングの場所でした。

そのころは本当に器具がなかったし、
情報も少なかった。

YMCAの練習場も混んでいて、
すぐ順番待ちの長い行列ができてしまう。

それで、向かいの公園でもよくトレーニングしていたんです。

釣り輪みたいな遊具。

大きな鉄の輪っかがぶら下がってるようなやつ。

あれでバーディップス
(2本の平行したバーを用い直立状態で腕立てをするようなトレーニング種目)
をするんです。


輪っかがグラグラ動くので、
自ずとバランスを取ることになる。

すると、固定されている状態でやるよりも、
もっと体幹を使うし、
普段とは違うところまで刺激が伝わるんですよね。


滑り台で腕立て。
ブランコで腹筋背筋。
鉄棒やジャングルジムも、
工夫してなんでも練習器具にしました。


夜の公園でトレーニングをしていたら、
おまわりさんに不審がられて、
声をかけられたこともありましたね。笑

ボディビルの大会に出場してみないか?

YMCAでは本当に練習に没頭していました。

だから1、2年で周りの人を追い抜いてしまって。。苦笑
身体もどんどん大きくなるし、形もよくなってくる。

すると、いろいろな人が、
「君はボディビルのコンテストに出るといいよ」って言ってくれるんです。

バランスも形もいいから、ボディビル向きだよと。


私は座高が低いんです。

身体のパーツが長いと、その分、
筋肉を多く付けなければいけないので大変なんです。


生まれ持った体のバランスがよかった。

両親に感謝ですね。

こんな成り行きで、
周囲の後押しもあって、
一度ボディビルのコンテストに出場してみようか、
という流れになっていきました。

1. 毎日がトレーニング。子ども時代から上京まで

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秋田県五城目町。

朝市が500年以上続く小さな街に、私は生まれました。

スポーツ万能少年

もともと子どものころから、
体力や運動神経は群を抜いていました。

自分で言うのは気が引けますが、
いわゆる、スポーツ万能という少年でした。


徒競走はいつも一番。

野球や相撲、柔道、ラグビーも、
とにかく運動に関しては、常に一目置かれる存在でした。


遺伝的な要素がとても大きかったと思います。

父親は町でも1、2を争う力の持ち主。
母は陸上競技の選手でしたから。



毎日の生活が、足腰のトレーニング

私が幼かったころは、

毎朝毎晩、母屋から少し離れた井戸へ行き、
水を一生懸命くみ上げて、

それをまた家まで50mくらい歩いて運ぶ、
ということを繰り返していました。
それが日課でした。


日常の中にそういう労働が当たり前のようにあったんです。
それ意外にも、掃除や畑仕事、
あらゆることを自分の体を動かしてやっていた。
今のように便利な道具はありませんでしたから。


そうした生活習慣が、
自然に足腰のトレーニングとなり、
知らず知らずのうちに、
鍛錬が出来ていたんだと思います。

冬の部活は、自重トレーニングで基礎体力づくり

中学校の部活動。

雪国なので、冬は校庭が使えません。
廊下や室内でトレーニングをして、
冬の間に基礎体力を鍛えます。


バーベルなどはなかったので、
おのずと器具を使わない自重トレーニング。

腕立て、腹筋、背筋などの種目を、
ひたすら繰り返していました。


学校の伝統として、先輩がとても厳しかった。
いい加減にやっているとすぐに怒られてしまう。
油断出来ないからいつも真剣でした。


毎日毎日、かなりキツかったですが、
こうした積み重ねが、
後の本格的なウェイトトレーニングの下地になりました。
無駄なことはないんですね。笑

将来の夢はマスコミ

高校時代は、通学時間が片道2時間にもなってしまったため、

時間的な理由から、運動部に入ることは諦めました。

ラグビーとかレスリングをやれば、
1年生からレギュラーになる自信はあったんですけど。


そしてそのころ、
だんだんと夢を思い描くようになりました。
将来はマスコミに行きたいと思ったんです。

雑誌社とか放送局とか。

もともとスポーツは得意だし、
身体的にも恵まれていましたけど、
その中だけに留まりたくなかった。

部活動から、
一旦遠ざかったことが影響したのかは分かりませんが、
スポーツとか身体のことだけじゃなくて、
もっと視野を広く持って、
いろんな世界を見てみたいと思ったんです。


世の中や別の分野のことを、もっと深く広く知りたいと。

ボディ・マインド・スピリット

結果的にはその後ずっとウェイトトレーニングを続け、
自分でジムを経営することにもなったのですが、
私のジムは、
単なるトレーニングをするだけの場所にはしたくなかった。

ボディ・マインド・スピリット。
身体も心も魂も、健康に。
そういう想いは、
この頃からなんとなく持ち始めていたんでしょうね。

やがて高校を卒業。
抑えきれない夢や好奇心が、
私を、小さな五城目の町から、

東京へと向かわせました。